予備校講師や塾の講師の「能力」とは何でしょうか。ひとことに「能力」と言っても,教えている分野の深い知識(当たり前!),問題作成能力,問題分析能力,説明力,人間性,他にもたくさんあります。
私の教え子が成績が上がったのは私が優秀だからではありません。私ではなく生徒が頑張ったから。私は教材を作り,勉強のメニューを組み立てて,たくさん勉強せざるを得ない状況を作っただけです。おかげで嫌われることもありました。小中学生からは特に!「始めはやさしかったのに,途中から急に怖くなった」とよく言われました(涙目)。
塾の先生方で成果を上げている方はどこかしらオーラがあります。中には厳しい指導をされる方もいるようです。しかし,着実に高田中学をはじめ名門私立中学に生徒を送り込んでいる中学受験塾様が三重県にはたくさんあります。公立の中学生を見ておられる塾様の事情が存じ上げませんが,古くからやっていらっしゃるところが多いと思います。塾は塾長様のキャラクターでかなり変わります。穏やかにやっている塾様もいらっしゃるかもしれませんね。
閑話休題。塾長は小学校六年生の冬に中学校受験を決意し(はい,中学入試の事情を全く知らず突撃して敗北を喫しました),それ以降は塾と縁がない生活を送っていました。しかし中学三年生の春から当時塾長が住んでいたところの隣町に昔からある塾に通うことになりました。この塾はある学校法人を経営されている一族の方が経営されていました。塾長が英語の先生,数学は女性の先生が担当されていました。数学の先生は歴戦の戦士という感じで,なかなか近づきがたい先生方だったことを覚えています。
この塾では生徒の皆さんに本当によくしていただきました。私だけ中学校が違うのにたくさん楽しい話をしてくれました。隣町から両親が車で迎えに来るまで塾の前で一緒に待っていてくれました。新参者でしたが,本当によくしてもらい,楽しい塾ライフを送っていました。
一学期の中間テストが終わったある通塾日,私が通う中学校は早めに試験が終わりました。塾にいる生徒の皆さんはこれから中間テストに向かうわけです。そんなとき私は塾長に「長田君,先生の代わりに授業をしてくれないか」とおっしゃたのです。図らずもチョークと指示棒を手に飽和水蒸気量の計算の話をすることになりました。うまいとか下手とかそういうレベルではなかったと思います。しかし塾長先生も生徒の皆さんも真剣に私の話を聞いてくださいました。お礼が言えたらいいたいです。本当にありがとうございました。この経験があったから私はこの仕事をしていると思います。
大昔はそれはそれはスパルタ教育をされていて,名門校にたくさんの卒業生を輩出されていたそうですが,私はお世話になったころはそれはそれはおっとりした雰囲気の塾になっていました。周りの生徒さんも良い方ばかり。きっといい大人になっておられると思います。
私はさらに成績をあげなければならない,同じ中学校の子と競争をしなければ,という親の方針でこの塾をお暇することになりました。私が卒業した中学校の間近に新しくできた高校受験専門塾がありました(今は業態を拡大して大学受験まで手を伸ばしておられます)。その塾の門をたたきました。
実は塾長はその前年この塾の入塾を受けて落とされました(原因は数学。担当の先生曰く「君の数学は『もう死んでいる』」。あと十秒もすれば私の肉体は四散するのでしょう(笑)。
しかし高校三年生でもう一度門をたたいた時は,K塾のグリーンコースの選抜試験に受かった実績をお話したら入れていただけることになりました。上から1,2,3クラスと分かれています。1が選抜クラスです。あからさまな差別はなかったと思いますが,周りの友人からはいろいろ聞いています。何か差別はあったのかな。私が入塾したところで1クラスにそれまでいた子が一つ下の2クラスに異動になりました。
その塾の指導は半端ではありませんでした。夏休みのうち2週間はお昼の時間中ずっと授業でした。夜の通常授業は別にあります。母のサポートのおかげで乗り越えらえました。秋からは難関私立高校向けの講座が始まり,迷わず参加しました。普段と全く違う語彙の英語,ものすごく複雑な設定の理科の問題,マニアックの知識を問う社会の問題,何をさせたいのか題意がつかめない数学の問題,補助線をどこに引くのかに迷う図形問題…たくさんの問題と出会いました。視野が一気に広がりました。
このころには450人いる学年で一桁を安定して取るようになってきました。私が言っていた中学校は近辺で一番規模が大きい学校で創立30年少々でした。その間に東大に行かれた先輩はお一人とか…。しかし私の代は恐ろしかったです。
1位の子は東海高校の編入試験に合格→東大文Ⅰ現役合格
2位の子は小学校も同じ子で,ずっと本を読んでいる印象の 子でしたが,京大薬学部に現役で合格されました。
3位は私。同志社の工学部に一浪で合格…
4位以下の人も名大に5人くらい,京大は先ほどの薬学部の子を別にして最低でも3人,金沢大に行った子もいます。
ようするに,私たちの学年はかなり特殊でした。みんな強かったです。一回たりとも一位が取れなかったのです。
しかし自慢できることはあります。中学三年生になってからの英語の模擬試験は,学校と塾で受験したものは合計6回。すべて満点でした。そしてずっと98点以上が取れなかった英語の試験。中学三年生最後の学年末試験(平均点40点台)ではじめて100点を頂けました。うちの中学校は80点を超えると答案に先生の字で「GOOD」,90点以上は「VERY GOOD」,そして100点だけは「EXCELLENT!」というお言葉を頂けました。さいごのさいごでEXCELLENTを頂けて本当にうれしかった!教えてくださった先生に感謝しないと!これは中学一年生の時にはじめて英語を教えてくださった先生の影響が大きいと思います。英語を勉強する習慣はこの先生の授業で形作られました。ALT(英語指導教員)の先生と臆せず話せるようになったのも,英語の先生のお力あってのものだったと思っています。
きょうの昔話はここまで。
成績を上げてくださる先生にたくさん出会ってきましたが,私にとって一番良かったのは「伸びるきっかけになる教材をくれる先生」だったように思います。その時その時に一番いい課題を与え,必要ならばものの見方を教示してあとはできるまでほおっておいてくださる先生なような気がします。もちろん,すぐにできるわけではないです。かなり長い時間,指導者に我慢が強いられます。しかし,いつかはできる,そう信じて待つのが一番いいのではないでしょうか。
なかには始終見守っていてほしい,分からないということがあったらすぐに教えてあげてほしいとおっしゃる保護者の方がいます。そのお気持ちは十分に承知しています。しかし,そのお子様を思うが故に起こした行動がお子様の成長の機会を奪っている可能性があります。試験ではご本人が自分の手と体と頭を使ったことしか使えませんから。
中にはいろいろな生徒さんがいます。印象に残っている生徒の1人に,それまで勉強らしいことを全くしてこなかった生徒。いわゆる「ギャル(20年前!)」がいました。主要教科は「相対評価」でオール1.どこか行ける高校がないかなぁ…と言っていました。社会と理科を担当した私は,「これだけ覚えようね」と教材を渡して,あとは生徒に任せました。授業の後は生徒と世間話をしていました。ニコニコと笑顔でその日に合ったことを話してくれます。めちゃくちゃ楽しかったです。2か月でその生徒の理科・社会の成績は3になりました。
生徒が頑張ってくれたからです。私は生徒との会話を楽しんでいただけ。そして勉強するきっかけを与えていただけ。最終的に勉強をするのは生徒さん本人で,講師ではありません。授業で勉強をするためにいるエネルギーを養ってもらえるようにしていました。ゴテゴテの関西弁で「せんせぇ~~~!!!」と大声で街で手を振ってくれた時もうれしかったなあ。
まじめに勉強をしている子ももちろん大事ですが,正直いってギャルの「せんせぇ~~~」はうれしかったです。もう今頃人の親になっているでしょう。良いお母さんになっているか,お子さんを育てながら社会で活躍をしていらっしゃるか…。きっと幸せな人生を送っておられると,幸せな人生を送られることを祈りたいと思います。
わがままですが,私は生徒に喜んで欲しいです。時にはきつい子ともいうかもしれない,話の息継ぎで「ため息」をつくこともあるかもしれません。しかし,お預かりした生徒の将来のために微力ながら協力したいと思います。その思いは変わりません。教師は梯子です。乗り越えられる力がつくようなトレーニングメニューを用意することが大事だと私は思います。
最後になりましたが,私が考える成績を上げる講師。それは
「生徒にきっかけを与える講師」
だと思います。これからもそういう講師であり続けたいです。
ご意見・ご感想などあればお聞かせいただければ幸いです。
ONゼミナール代表 数学・物理・化学担当 長田俊将