最近よく授業を受けるという行為について考えます。何を持って勉強というのだろう。こんなことを塾の経営者が言うことではないのかもしれませんが。
生徒の皆さんはなぜわざわざ塾で授業を受けるのか何度も考えているかもしれません。勉強というのは自分でやることなのに,なぜわざわざ決まった曜日,時間にいつもの場所に通って授業を受けるのか。
授業が分かりやすい方が良い。それはそうですね。異論の余地はありません。勉強の方向性が見えてこない授業ほどダメな授業はないです。
問題は「分かりやすい授業」を聞いてそれで満足している生徒が多いことです。分かりやすい授業を聞いてあなたはちゃんと「分かった」ことをどうやって証明するのでしょうか。本当に分かっているのですか。
授業中に盛んにうなづいて聞いてくれていた生徒に授業が終わったあといくつか内容に関する質問をしたところ,ほとんど分かっておらず,愕然とした記憶がある講師の先生は多いと思います。
ある予備校の数学の先生で,入試最高レベルのことをわかりやすく教えるので評判の方がいらっしゃいます。私の数学の学力をミジンコレベルから人並み以上にして下さった先生です(ミジンコさん,気を悪くなさったらごめんなさい)。
その先生はとてもゆっくり話をしているように見えるのですが,板書は恐ろしく早くて,12時間ほどの講習でノートを1冊使い切ってしまうほどの勢いでした。真っ白だったノートが12時間ですべて埋まってしまうのです。そして数学が少しできるようになった気になるのです。まぁ,直後の模擬試験でまだまだだということを思い知らされるわけですが。
分かったふりというのは論外ですが,「分かったような気になっている」のは本当に恐ろしいです。レベルの高い授業を聞いて,その内容に感動して「おお!世界が広がったぜ!!」と悦に入っている人がたくさんいますが,そんな人に基本的な質問をしてみましょう。案外根本的なことが分かっていないものです。
そして根本的なことが抜け落ちたまま大学受験を迎えると,それはそれは悲惨な結果になります。
「あれ?こんなふうになるはずはないのに?」
大事なのは生徒に勉強するきっかけを与えることなのですね。自分の至らないところに気付いて勉強の仕方を見直す,先生に教えられたやり方で問題を解き直す,自分を少しでも良いふうに変えていく。
先ほどのお話に出てきた先生はそんなことは十分わかっておられます。ご自分が話した内容の根本的な部分が生徒の頭に入っていないことを,講師室や教室でよく嘆いていらっしゃいました。
勉強は自分でやるものです。問題は自分で考えて解くものなのです。智慧は黙っていたら天からおりてくるわけはないのです。積み重ねてきた知識や経験の中から智慧が出てくるのです。「何かか舞い降りてきた」のではなく,それまでの努力の中でその「何か」をつかんでいたというだけのことです。
教える人間の役割について,まだまだ考えるべきことがたくさんありそうです。未来を担う人たちの力になりたいと思いつつ,今日も今日とて教壇に立ちます。